ビジネス×行動経済学

行動経済学や行動心理学など行動科学の理論やバイアスをビジネスに適用することを目的にしたブログです

【コラム㉑】 日米のキャリア観からみる転職の「善悪」と行動経済学

皆さん、こんにちは。
本ブログは行動経済学を実際のビジネスに適用していくことを主目的としています。

行動経済学の理論を中心に、行動心理学や認知心理学などの要素も交え、ビジネスの様々なシーンやプロセス、フレームワークに適用し、実践に役立てていきたいと思っています。

今回は、本日の日本経済新聞でみかけた、日米のキャリア観や転職に対する価値観などを紹介する記事をもとに、行動経済学的観点で探求をしていきたいと思います。

www.nikkei.com

日本とアメリカにおける転職に対する価値観には、非常に大きな違いがあります。日本では転職回数が多いのは「悪」という考えが根強く、1つの会社に長く勤めることが「善」とされています。一方、アメリカではキャリアアップの一環として、転職が自然であり、むしろ歓迎されることが一般的です。この文化的なギャップを行動経済学の視点から分析すると、さまざまなバイアスや理論が浮かび上がってきます。

 

日本の「長期雇用」はなぜ根強いのか? ― 現状維持バイアス

日本で終身雇用が支持される背景には、現状維持バイアスが大きく影響しています。現状維持バイアスとは、変化を避け、現状を維持しようとする人間の傾向を指します。データによると、日本の労働者が生涯で転職する回数は平均約2.23回です(男性は1.97回、女性は2.49回)。この数値は、終身雇用や年功序列といった社会的要因によって現状維持が強く働いていることを示しています。

また、日本の年功序列や退職金制度も、この現状維持バイアスを強化する要素です。長く勤めるほど恩恵が大きくなるため、転職によるメリットがデメリットよりも少ないと感じられるのです。

 

アメリカの「転職文化」 ― インセンティブプロスペクト理論

対照的に、アメリカでは転職が昇給や昇進に直結するため、外発的なインセンティブが強力に働いています。アメリカの労働者は、生涯で平均11.7回も転職を経験しています。この数値は、日本に比べて非常に高く、転職がキャリアアップやより良い条件の職場を探すための一般的な行動であることを示しています。

ここで関連するのが、プロスペクト理論です。アメリカの労働者は、転職しないことで得られる可能性のある利益(昇給や昇進)を逃すことに敏感です。転職をリスクではなく、むしろ機会と捉えるのが一般的であり、ジョブ型雇用の普及がこの傾向を後押ししています。

 

「転職回数が多いのは悪」という価値観 ― サンクコストの誤謬

日本では、長期間同じ会社に勤めることが美徳とされる文化があります。これは、労働者が会社に投資した時間や労力を大切にし、その投資を無駄にしたくないという心理、サンクコストの誤謬に関連しています。労働政策研究・研修機構のデータによれば、日本の労働者の平均勤続年数は12.3年と、アメリカの4.1年と比較して非常に長いことが分かります。長期にわたる勤続が価値として認められる日本では、転職回数が多い人は「仕事が続かない」というネガティブなイメージがつきやすく、結果として転職に対する抵抗感が高まります。

 

アメリカの転職文化 ― 社会的証明

アメリカでは、転職は非常に一般的であり、転職を繰り返すことがキャリアアップに繋がると広く認識されています。これは社会的証明の理論とも関連しています。社会的証明とは、他人の行動を参考にして自分の行動を決定する傾向を指します。アメリカでは、ほとんどの労働者が転職を経験しているため、多くの人が転職を「当たり前のこと」として受け入れ、実行しています。

一方、日本では「一つの会社に長く勤めることが善」という社会的規範が強いため、多くの人が転職回数を重ねることに対して消極的です。このため、転職を考える際にも周囲の目が気になり、実行に移せないケースが多く見られます。

 

変わる日本の転職市場

ただし、少子高齢化や経済の構造変化に伴い、日本でも転職市場が徐々に活発化してきています。マイナビ転職動向調査2024年版によれば、正社員の転職経験率は2016年の3.7%から2023年には7.5%に倍増しており、転職で年収が上がった人の割合も2020年の33.9%から2023年には39.1%に上昇しているそうです。また、2023年の総務省労働力調査では、転職希望者が初めて1,000万人を超え、転職予備軍の裾野が広がりつつあります。

このように、日本における転職市場も大きく変化しつつあります。かつては「終身雇用」として守られていた雇用の安定が、今では柔軟なキャリア形成へとシフトしていることがデータからも明らかです。

転職によるキャリアアップという選択肢(DALL・Eで作成)

まとめ

日本では依然として転職回数が多いのは「悪」という価値観が根強いものの、行動経済学の観点から見ると、この価値観は現状維持バイアスやサンクコストの誤謬に影響されていることが分かります。しかし、転職市場の変化や労働力不足などを背景に、今後はより柔軟な働き方が求められるようになるでしょう。

企業の採用担当者にとっては、この変化に適応することが今後の競争力に直結します。まず、転職回数に対する固定観念を見直すことが重要です。転職回数が多い候補者にも、その背後にあるキャリアの合理性を理解し、柔軟な視点で評価する姿勢を持つのが良いでしょう。具体的には、候補者が転職を通じて得たスキルや経験を積極的に評価するための面接質問の再設計や、スキルベースの採用基準の導入が効果的です。

さらに、転職に対する社内の認識を変える教育プログラムの実施も推奨されます。社内の現場管理者やリーダー層に対して、転職の増加が労働市場における自然な進展であり、変化を恐れるのではなく、積極的に受け入れるべきものであることを伝えることが重要です。これにより、採用時に多様なバックグラウンドを持つ人材が適切に評価され、企業の多様性が強化されます。

一方で、転職を考えている方は、自身が抱えるサンクコストの誤謬に注意することが大切です。「長く勤めた会社を辞めるのはもったいない」と感じることは自然ですが、その考えが不必要な足かせになっていないか冷静に見直してみるのが良いです。むしろ、転職は自己投資の一環であり、キャリアアップや新しいチャンスを得るための合理的な行動だということを理解するのが重要です。

具体的なステップとして、自分のスキルセットを客観的に評価することが転職成功の鍵です。転職市場における自分の価値を理解するために、転職エージェントの利用や市場調査を行い、現在の市場での自分の立ち位置を把握する必要があります。また、転職活動にあたっては、目標とするキャリアビジョンを明確に設定し、そのビジョンに沿ったポジションを見つけることが重要です。プロスペクト理論を活用して、「転職しないことによって逃す可能性のある機会」を意識し、リスクだけでなくメリットを天秤にかける視点を持つと良いかと思います。

最後に、共通して言えることは、労働市場は変化しており、今までの常識にとらわれすぎると柔軟なキャリア形成が阻害される可能性があるということです。行動経済学の理論を活用し、自身のバイアスや思い込みに対して客観的に向き合い、合理的かつ戦略的な判断を下すことが求められます。

 

次回も、ビジネスに役立つ行動経済学の理論を紹介します。お楽しみに!