
――人件費はゆっくり効き、手戻りは先に現金を奪う
皆さん、こんにちは。
今回から、5回シリーズ、
工場は、なぜ簡単に移せないのか ――「場所」ではなく「能力の束」として工場を考える
を始めます。
前回までのシリーズ「その数字は、原因を語っているか」では、ある施策の前後で数字が変わっても、その施策が変化の原因だったとは限らないことを考えてきました。
原因と結果の間には、ほかにもさまざまな条件が入り込みます。
また、本当に比較すべきなのは、施策を実施した現在と実施前の過去ではありません。
その施策を実施しなかった場合、何が起きていたのか。
という、実際には観察できないもう一つの未来です。
今回からは、この考え方を工場移転という具体的な経営判断へ当てはめます。
工場移転の検討会議で、次のような説明を聞くことがあります。
候補地の人件費は、現在の工場の約半分です。 この地域へ生産を移せば、大幅な原価低減が期待できます。
スライドには、二本の棒グラフが並んでいます。
現在の工場が100。移転候補地が50。
差は歴然です。
会議室では、「これだけ違うなら、移転した方がよい」という空気が生まれます。
けれども、ここで一つ確認しなければなりません。
人件費が半分になれば、製造原価も半分になるのでしょうか。
工場を移すときに変わるのは、人件費だけではありません。
作業者の習熟度が変わります。仕入先が変わります。物流経路が変わります。在庫量が変わります。本社からの支援も増えます。
人件費という一つの数字を変えたつもりでも、実際には工場を構成する多くの条件を同時に動かしているのです。
本稿に登場する数値は、特定企業の実績ではなく、構造を説明するための仮想例です。
人件費は、原価の一部でしかない
まず、ある仮想製品の製造原価を100として考えてみます。

この製品では、直接人件費が原価全体の12を占めているとします。
移転によって人件費が半分になれば、12が6になります。
ほかの条件が一切変わらなければ、製造原価は100から94へ下がります。
人件費は50%下がる。 しかし、製造原価の低下は6%である。
「50%削減」と聞くと、非常に大きな効果に感じます。
一方、「原価100が94になる」と言い換えると、印象は変わります。
同じ事実でも、どちらの数字を前面に出すかによって、判断は大きく変わります。
人は、最初に提示された数字を、その後の判断の基準にしやすい傾向があります。行動経済学でいうアンカリングです。
最初に「人件費50%削減」という数字を見れば、会議ではその50%が基準になります。
その後に物流費や支援費用が追加されても、「50%の大きな削減効果から、少し差し引かれるだけだ」と感じやすくなります。
しかし、経営判断で見るべきなのは、人件費の削減率ではありません。
会社全体で、最終的にいくら減るのかです。
なお、人件費の構成比は、業種、製品、工程、自動化率によって大きく異なります。労働集約型の工程では人件費比率が高く、自動化された工程では低くなります。
重要なのは「人件費は必ず12%である」ということではありません。
自社製品の原価に占める人件費は何%なのか。 その人件費を下げたとき、総原価は何%下がるのか。
を分けて見ることです。表1は原価100の内訳、図解1は人件費を半減したときに総原価がどう変わるかを示しています。

6%の削減を、手戻りと本社支援が消していく
さらに問題があります。
先ほどの「100から94になる」という計算は、移管先が最初から現在の工場と同じ生産性、品質、納期で稼働することを前提にしています。
実際の移管先は、まだ製品にも工程にも慣れていません。
図面とBOMを渡しても、すぐに同じように作れるとは限りません。
作業手順書の表現が現場の動きと合っていないことがあります。検査基準の境界が、双方で違って理解されることもあります。現物と図面に、過去の変更履歴が十分反映されていない場合もあります。
すると、次のような手戻りが発生します。
- 試作品を作り直す
- 作業手順書や検査基準を修正する
- BOM、図面、現物の不一致を確認する
- 作業者へ再教育する
- 不良原因を再調査する
- 部材や仕入先を再評価する
- 顧客へサンプルを再提出する
手戻りは、一回分の作業費だけでは終わりません。
たとえば、検査基準の認識違いが見つかったとします。
試作品を作り直します。量産承認が遅れます。生産計画を引き直します。本社の技術・品質担当者が追加確認に入ります。納期を守るために航空便へ切り替えます。遅延に備えて、安全在庫も積み増します。
一つの認識違いが、複数部門と複数費目へ波及していくのです。
先ほどと同じ仮想例で、移転初年度の年間総費用を考えてみます。

これは、移転初年度の構造を理解するための簡略化した試算です。人件費で6を下げるはずが、初年度の総費用は100から94になるどころか、101へ増えています。「安くするための移転」が、初年度には費用増を招く。この逆転は、偶発的な事故ではなく、手戻りや支援費用が連鎖した結果として起こり得ます。
しかも、人件費の▲6は、移管した生産数量に応じて少しずつ効いてきます。立上げ初期は移管数量そのものが少ないため、実際の削減額は6へ届かない可能性があります。
一方、試作費、出張費、手戻り、並行生産、緊急輸送は、立上げから数か月の間に先行して発生します。
削減効果は、量産が増えるにつれてゆっくり効く。 追加費用は、量産が安定する前に一気に出ていく。
総額が同じでも、発生時期が違えば、資金繰りと現場負荷は変わります。
立上げ初期に問題が集中すれば、現地の作業者も本社の支援部門も疲弊します。確認が粗くなり、新しい手戻りを生み、それがさらに支援を増やす悪循環に入ることもあります。
人件費削減は少しずつ効きます。
しかし、品質問題や生産遅延の損失は、一度に発生します。
ここに、工場移転の非対称性があります。

本社支援は、原価表に載りにくい
工場移転では、現地の作業者だけが仕事をするわけではありません。
本社の複数部門が、移管先を支えます。
技術部門は、図面や作業条件を確認します。
品質部門は、検査基準を説明し、不具合原因を分析します。
生産管理部門は、新旧工場の生産数量と納期を調整します。
調達部門は、部材、仕入先、発注条件を確認します。
システム部門は、品目、原価、仕入先、倉庫などのマスターを登録します。
必要に応じて、通訳、翻訳、日次会議、現地出張、一時駐在も発生します。
出張旅費やサンプル費用は、移転費用として比較的見えやすい項目です。
ところが、本社社員が通常勤務の中で使った時間は、既存の人件費に埋もれます。
一日に二時間のオンライン会議を行っても、その二時間分の請求書が発行されるわけではありません。
技術者が図面を修正しても、移転先の製造原価へ直接計上されるとは限りません。
品質担当者が一週間、不具合分析に集中しても、その工数は本社側の人件費や販管費に残るかもしれません。
その結果、新工場の損益だけを見ると、低い人件費で製品を作れているように見えます。
しかし、その低原価は、本社の技術、品質、生産管理、調達が無償で支援し続けることによって成立している可能性があります。
新工場の低原価を、本社の高い支援工数が「無償の輸血」で支えている。
その状態で新工場だけの数字を見れば、移転は成功しているように見えます。
会社全体で見れば、費用の発生場所が工場から本社へ移っただけかもしれません。
さらに、本社支援には機会費用があります。
移管対応に使った時間は、本来なら別の仕事に使えた時間です。
- 既存工場の改善
- 新製品の立上げ
- 原価低減
- 品質改善
- 顧客対応
- 次の人材育成
これらが遅れても、移転プロジェクトの費用表には載りません。
けれども、会社として失った時間であることに変わりはありません。
だから工場移転では、旅費や外注費だけでなく、
どの部門が、何人日を支援したのか。 その支援工数は、月ごとに減っているのか。 支援のために、何を延期したのか。
まで確認する必要があります。
本社支援がいつまでも減らないのであれば、移管先はまだ自立していません。
見かけ上の低原価を、本社が補助し続けているだけです。
移転費用は、時間軸とリスクの深さで分ける
工場移転で発生する費用は、三つに分けると整理しやすくなります。
1.移転・習熟期間に発生する費用
- 設備・金型の移設
- 試作、評価、認証
- 作業者への教育
- 手戻りと再教育
- 本社からの技術・品質支援
- 新旧工場の並行生産
これらは、主に移転前後へ集中する費用です。
計画段階で比較的予想しやすい一方、「一度教えれば終わる」「試作は一回で通る」といった楽観的な前提が入りやすい部分でもあります。
2.移転後も継続する費用
- 輸送距離の増加
- 安全在庫の積増し
- 現地管理者の配置
- 本社との定例会議
- 品質監査
- 法規・通関対応
立上げ費用は一時的でも、移転によって業務構造そのものが変われば、費用は移転後も残ります。
とりわけ、本社支援が「一時的な立上げ支援」から「恒常的な運営支援」へ変わっていないかを見る必要があります。立上げ後も現地だけでは判断できず、毎週の本社定例会議や例外承認が残り続けるなら、それも移転後に継続する見えない固定費です。
3.発生頻度は低いが、損失の大きい費用
- 生産停止
- 重大品質事故
- 主要部材の調達不能
- 認証や通関上の問題
- 顧客への緊急対応
- 失注や販売機会の逸失
これらは、毎月発生する費用ではありません。
発生しなければ、移転計画の損益表には何も現れません。
しかし、一度発生すれば、数年間かけて積み上げる人件費削減効果を短期間で失う可能性があります。
これは、まったく予測できない出来事という意味での「ブラックスワン」ではありません。
発生する可能性は低くても、製造業であれば想定しておくべきテールリスクです。
発生確率が低いことと、考えなくてよいことは同じではありません。
通常の原価表に載るのは、実際に発生した費用です。
経営判断で見るべきなのは、それに加えて、いつ発生するのか、どこまで続くのか、最悪の場合にいくら失うのかです。
一つの変数を変えたつもりが、工場全体を動かしている
人件費の安い地域へ工場を移す。
表面上は、立地と人件費という一つの条件を変える判断に見えます。
しかし、実際に同時に変わるのは、人件費だけではありません。
- 作業者の習熟度
- 手戻りの発生頻度
- 本社の支援工数
- 部材の調達条件
- 仕入先との距離
- 輸送時間
- 必要な在庫量
- 品質管理の負荷
- 本社との情報伝達
そして、これらの変化が、総費用、納期、供給安定性へ影響します。
工場移転の効果を人件費だけで測ることは、複数のつまみを同時に動かしながら、一つのつまみだけが結果を変えたと考えるようなものです。
人件費低下から原価低下へ向かう、見えやすい一本の経路があります。
その周囲には、習熟度の低下から手戻りへ向かう経路、調達先の変更から納期や品質へ向かう経路、物流距離から在庫へ向かう経路、本社支援から機会費用へ向かう経路があります。
移転の成否は、この複数の経路を通じて決まります。

比較している二つの未来は、本当に公平か
工場移転の試算では、次のような比較が行われがちです。
現在の工場:現時点の実績原価 移転先の工場:問題なく稼働した後の計画原価
現在の工場には、現実に発生している非効率が含まれています。
古い設備があります。長年変えられていない工程があります。高い物流費や過剰な在庫もあるかもしれません。
一方、移転先の計画原価は、量産が予定どおり立ち上がり、歩留まりも安定し、本社支援も減った後の姿です。
手戻りも、立上げ遅延も、緊急輸送も起きない前提になっていることがあります。
つまり、比較しているのは、
現実の現在地と、理想化された移転先
です。
これでは、移転先が有利になるのは当然です。
本当に比較すべきなのは、次の二つの未来です。
選択肢A:現在の工場に残り、改善した3年後
- 工程改善を行う
- 自動化できる部分へ投資する
- 仕入条件を見直す
- 不良と手戻りを減らす
- 製品設計を変更する
選択肢B:新工場へ移転し、習熟した3年後
- 設備・金型を移す
- 作業者を教育する
- 新旧工場で並行生産する
- 本社が立上げを支援する
- 手戻りを経て、量産を安定させる
前シリーズで考えてきた「反実仮想」とは、まさにこの比較です。
移転した現在と、移転前の過去を比べるのではありません。
移転した未来と、移転せずに改善した未来を比べる。
必要があります。
しかも、安定後の単月原価だけでは不十分です。
立上げ費用、本社支援、並行生産、追加在庫を含む累積キャッシュアウトで見なければなりません。
新工場の安定原価が低くても、安定までに三年かかるのであれば、その間に支払った費用を回収できるのはさらに先です。
反対に、移転初年度は費用が増えても、量産安定後の削減効果が大きく、十分な生産期間があるなら、移転が合理的な場合もあります。
問うべきなのは、「どちらの単月原価が安いか」ではありません。
いつから安くなるのか。 それまでにいくら必要なのか。 何年生産すれば回収できるのか。
です。

工場移転で先に問うべき三つのこと
ここまでの内容を、実務上の三つの問いにまとめます。
1.理論上の削減余地はいくらか
人件費が何%下がるかではなく、総原価に占める人件費の割合を確認します。
- 人件費は総原価の何%か
- 人件費が下がったとき、総原価はいくら下がるか
- その削減額は、移転投資に見合う規模か
2.移管先が自立するまで、何が必要か
設備や旅費だけでなく、手戻りと本社支援を見積もります。
- 試作と再試作を何回見込むか
- 本社の何部門が支援するか
- 支援は何人日必要か
- 本社支援は、月ごとに減少するか
- 支援のために、どの業務を延期するか
本社支援が減らない場合、移管先が自立していない可能性があります。
新工場の原価だけでなく、会社全体の支援工数を同じ表へ載せる必要があります。
3.移転しない未来と比較したか
移転案だけを詳しく作り、現状維持案を何も変わらない前提にしてはいけません。
- 現工場を改善した場合
- 一部工程だけを移した場合
- 自動化した場合
- 仕入先を変更した場合
- 製品設計を変更した場合
についても、同じ期間、同じ精度で比較します。

まとめ――原価表の外側にある工場を見る
今回の内容をまとめます。
第一に、人件費の削減率と、総原価の削減率は同じではありません。
人件費が半分になっても、それが原価の12%であれば、理論上の削減効果は6%です。
第二に、移転初期には、手戻り、本社支援、並行生産、緊急輸送などの費用が先行して発生します。
削減効果は生産数量に応じて徐々に現れますが、追加費用は立上げ初期に集中します。
第三に、本社社員の支援工数は、移転費用として見えにくい数字です。
新工場のP/Lでは低原価に見えても、本社側の人件費や機会費用が、その低原価を支えている可能性があります。
第四に、移転判断では、現実の工場と理想化された移転先を比較してはいけません。
「現在の工場を改善した未来」と「移転して習熟した未来」を、同じ時間軸と累積費用で比べる必要があります。
もちろん、人件費の安い地域への移転が間違いなのではありません。
製品、数量、工程、販売期間によっては、工場移転が合理的な場合もあります。
問題は、人件費という一つの数字だけで、移転全体の効果を判断することです。
そして、ここでもう一度、最初の仮想原価へ戻ってみます。
人件費は12でした。
それを半分にするために、手戻り、本社支援、並行生産という負担が発生します。
一方、原価の半分以上を占めていたのは、材料・部品の55です。
では、工場を移した後も、この55を同じ価格、品質、納期で調達できるのでしょうか。
図面には、部品の仕様が書かれています。
BOMには、必要な部品と数量が書かれています。
しかし、急な増産に応じてくれた仕入先、品質問題が起きたときに一緒に原因を探した担当者、納期遅延時に優先順位を組み替えてくれた関係までは書かれていません。
工場を移すとき、最初に失われるのは設備ではない。 原価表とBOMの外側にあった関係である。
次回は、
BOMは移せても、取引関係は移せない ――部品表に載らない「例外対応」の価値
を考えます。
今回はここまでとします。 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
































