皆さん、こんにちは。
本ブログは行動経済学を実際のビジネスに適用していくことを主目的としています。
行動経済学の理論を中心に、行動心理学や認知心理学、社会心理学などの要素も交え、ビジネスの様々なシーンやプロセス、フレームワークに適用し、実践に役立てていきたいと思っています。
実は、以前から「地方創生」というテーマには強い関心を抱いていました。人口減少・高齢化・産業衰退といった構造的課題に対し、地域がどのように人の流れや関係性を再設計していくかという視点は、行動経済学の実践領域として極めて重要だからです。
そんな中、NewsPicksに掲載された「【実例】HPの改修だけで、観光客は『10倍』になる」という記事が目に留まりました。
熊本県阿蘇市の観光協会がウェブサイトを改修し、地域の自然や歴史を伝えるコンテンツを整備した結果、観光客数が5年で10倍に増加したという実例が紹介されています。
この事例は、単なるIT施策の成功にとどまりません。行動経済学の観点から見れば、情報の見せ方(フレーミング)や選択肢の整理(選択アーキテクチャ)、共感を誘うストーリー設計(感情ヒューリスティック)など、数多くの心理的ナッジが巧みに活用されていたと解釈できます。
観光地を「選ぶ」行動には、実は多くのバイアスが影響しています。情報過多により選択を避けたくなる選択回避バイアス、SNSの評価や口コミに引き寄せられる社会的証明、逆に誰も行っていない場所に魅力を感じる希少性バイアス──。観光地の「魅力」は単に実物の質だけではなく、いかに「行ってみたい」と思わせるかという心理設計にも左右されるのです。
そこで今回は、熊本県阿蘇のような成功例を起点に、国内外の観光戦略に潜む行動経済学的仕掛けを掘り下げていきます。地方の観光地における持続的集客、関係人口の増加、そして地域経済の再生に寄与するアイデアとは何か。数々の実践例と理論を交えながら、観光と心理の交差点を読み解いていきます。

なぜ人は地方に来ないのか?行動経済学で見る3つの心理の壁
地方観光が抱える構造的な問題は、単なる財源や人口の問題にとどまりません。人が動かない、仕掛けても響かない──その背景には、観光客の“行動を起こさない”心理と、地域側の“変えられない”心理、双方に根深い行動経済学的な要因が存在しています。以下では、地方観光に共通する代表的な3つの課題を、行動バイアスの視点から整理してみます。
情報整備の遅れ:「現状維持バイアス」と「サンクコスト効果」
多くの地方観光協会では、10年前から変わらないウェブサイトや観光パンフレットが依然として使われ続けています。改善の必要性は認識しつつも、「今のままでも最低限の観光客は来ている」という安心感から抜け出せない。この状態は、行動経済学でいう「現状維持バイアス(status quo bias)」が強く働いている例です。
また、過去に作成した印刷物やプロモーション素材への投資を“もったいない”と感じ、新しい手法に踏み出せない心理も見逃せません。これは「サンクコスト効果(sunk cost fallacy)」であり、すでに失ったはずのコストが意思決定を縛り、将来の改善行動を妨げるのです。
つまり、情報発信が遅れているのは予算不足ではなく、「変えられない心理」による側面が大きいのです。
観光体験価値の過小評価:「フレーミング効果の欠如」と「確証バイアス」
「ウチには特別なものはないから」「よその観光地のような“目玉”がない」と語る自治体関係者は少なくありません。しかし、その土地にしかない一次産業や暮らしの文化、風景の変化、住民との触れ合いこそが観光資源になり得ることを、見過ごしているケースが多く見受けられます。
これは「確証バイアス(confirmation bias)」に起因しています。過去に「ここは観光地にはなりえない」とされた事実やイメージを優先し、他の可能性を否定してしまうのです。
さらに、仮に魅力的な体験が存在していても、伝え方が弱ければ訪問者の心には届きません。これは「フレーミング効果」の欠如──情報をどう提示するかで印象は大きく変わるにもかかわらず、単なる列挙的な説明や、味気ない写真・言葉で済ませてしまうことに問題があります。
たとえば「農作業体験」ではなく、「早朝4時、雲海に包まれた畑で朝露に濡れながらトウモロコシを摘むひととき」と描写すれば、同じ事実でもまったく異なる感情を喚起できます。こうした演出が乏しいことで、「行ってみたい」まで行動を促す力が失われているのです。
滞在時間の短さ:「ハッシル・ファクター」と「選択回避バイアス」
多くの観光地では、観光施設の営業時間が夕方で終わることや、公共交通の便が限られていることから、夜や朝の時間帯のアクティビティが極端に不足しています。この“空白時間”が、観光体験全体の満足度を下げる主因となっています。
ここに働いているのが「ハッシル・ファクター(hassle factor)」です。ちょっとした不便──たとえば「バスが1日1便しかない」「タクシーがつかまらない」「暗くて道が分かりにくい」──といった小さな障害が、行動を大きく抑制する心理的コストになっているのです。
また、限られたアクティビティや選択肢が整理されていないことも、観光客の「選ばない」という判断を誘発します。これは「選択回避バイアス(choice overload)」の典型例です。観光パンフレットにアクティビティを10個並べるのではなく、「3つのおすすめコース」として提示する方が、実際には選ばれやすくなります。
これらの課題に共通しているのは、「無関心」ではなく「心理的抵抗」が行動を妨げているという点です。つまり、物理的な整備やハードの改善だけでは限界があり、「どうすれば動きたくなるか」「どう提示すれば価値を感じるか」という行動設計が不可欠なのです。
次章では、こうした課題を乗り越えた国内の成功事例を紹介し、それらがいかに行動経済学的知見を活用しているかを検証していきます。
“また来たい”を生む仕掛け:国内3事例のナッジ戦略
地方観光の課題を乗り越えた成功事例には、共通して「誰の行動をどのように変えたか」を見据えた心理設計があります。本章では、日本国内における3つの事例を取り上げ、それぞれが行動経済学の理論──とくに希少性バイアス、社会的証明、所有効果、ピーク・エンド効果など──をどのように活用していたのかを分析します。単なる事実紹介にとどまらず、ナッジとしての設計意図を読み解くことを通じて、明日から応用可能なヒントを抽出します。
北海道美瑛町「青い池」:SNS×希少性バイアスの融合戦略
美瑛町の「青い池」は、元々防災用に造られた人工池でしたが、コバルトブルーの幻想的な色合いが写真家によって発見・発信されたことを機に、一気に注目を集めました。Apple社がMac OSの壁紙に採用したことで世界的に知られるようになり、その後町が仕掛けたのが、夜間ライトアップとSNS誘導の導線設計です。
観光協会はライトアップを「期間限定」「天候条件次第」「特定時間帯のみ」などと明示し、訪問者の“今行かなければ”という心理を刺激しました。これがまさに「希少性バイアス(scarcity bias)」の活用です。人は“限定”や“希少”という言葉に過敏に反応し、意思決定を急ぎます。
さらに、池のほとりには「撮影スポット」を明示し、SNS投稿キャンペーンを併設。これは「社会的証明(social proof)」の設計であり、「みんなが撮っている」「バズっている」という状況が次の訪問者を呼び込む仕組みになっています。
また、あえて「池までのアクセスがやや不便」「ライトアップは寒さを伴う」などの“ハードル”があることで、訪問者の中には「行けた自分はすごい」という自己効力感や承認欲求が満たされるようになっています。これは「努力回避の逆説的効果」とも言える心理的報酬の獲得構造です。
石川県能登「春蘭の里」:所有効果と関係人口化の成功モデル
石川県の中山間地域に位置する「春蘭の里」は、典型的な過疎集落でした。しかし、地域住民が農家民宿を始めたことをきっかけに、今では年間4,000人以上の宿泊者が訪れ、国内外から注目を集めるモデル地域となっています。
観光の中核は“何もしない体験”です。畑仕事や薪割り、囲炉裏での食事、地域の人との対話。これは「豪華さ」や「利便性」ではなく、「この地での暮らしそのものに価値がある」と感じさせるようなナッジ設計です。
行動経済学的には「所有効果(endowment effect)」が強く働いています。一度泊まって体験した人は、地域の暮らしや農作業に“心理的所有感”を持つようになります。この感情が「春蘭の里ファン」を生み、定期的な再訪・物産購入・都市部でのイベント参加といった“関係人口化”を促進します。
また、農家民宿という仕組み自体が「選択肢の簡素化=ナッジ」として機能しています。宿泊客はホテル予約サイトのように複雑な選択を迫られることなく、「地元の誰かの家に泊まる」という直感的でストーリー性のある選択肢を提示されるのです。
「何があるか」ではなく「誰と過ごすか」で価値を感じさせる仕掛けは、都市部にはない観光のコア体験として、心理的満足度を大きく高めています。
新潟県越後妻有「大地の芸術祭」:ピーク・エンド効果とナラティブ効果の融合
「大地の芸術祭」は、新潟県の越後妻有地域で3年に一度開催される世界最大級の屋外アートイベントです。地域全体が「作品」として扱われ、棚田や廃校、古民家などがアーティストによって再解釈される構造となっています。
この芸術祭の体験価値は、来訪者の「記憶に残る旅」を創り出す点にあります。行動経済学で言う「ピーク・エンドの法則(peak-end rule)」──人は全体の平均ではなく、“最も印象的な瞬間”と“終わり方”で体験全体を評価するという傾向──を巧みに活かしているのです。
たとえば、来訪者が一日の終わりに訪れるアート作品が、夕暮れの棚田の中で行われるライブイベントや、地元住民との交流を伴うアフターパーティーであれば、旅の“終わりの記憶”に鮮烈な印象が刻まれます。
また、各作品には「なぜこの場所にこれを置いたのか」という“物語(ナラティブ)”が付随しており、鑑賞者の「意味付け欲求」を満たします。これは「ナラティブ効果(narrative bias)」と呼ばれ、事実そのものよりも“ストーリー”が共感や記憶を呼び起こすことが知られています。
加えて、芸術祭では移動や宿泊の選択肢がある程度整理されており、パンフレットやアプリ上では「3時間コース」「1日コース」「2泊3日コース」などの“選択支援型UI”が整備されています。これも、選択麻痺を防ぐナッジとして非常に実用的です。
国内の成功例から見えてくるのは、「体験設計の深さ」こそがナッジの精度を決めるという点です。情報を磨くだけではなく、「誰に・どんなバイアスを通じて・どのように印象を残すか」という心理設計が、観光の満足度と経済効果を決定づけるカギなのです。
次章では、これをさらに国境を超えて、海外の先進事例からそのヒントを探っていきます。
世界の辺境から学ぶ:心を動かす観光デザインの知恵
地方創生は世界共通の課題であり、観光を起点とした地域再生の試みは、日本に限らず各国で実践されています。本章では、台湾・スイス・カナダにおける地方観光の成功事例を取り上げます。それぞれの地域で、「誰の心をどう動かすか」という設計思想に基づいた施策が展開されており、自己効力感、選択アーキテクチャ、自己語りバイアスなど、行動経済学的要素が随所に見られます。海外事例の分析から、観光戦略の汎用性と応用の可能性を探ります。
台湾・南投県「桃米生態村」:自己効力感とコミュニティナッジによる再生
台湾中部の山間に位置する「桃米村」は、1999年の台湾中部大地震で甚大な被害を受け、限界集落化の危機に瀕していました。しかし、その後、地域ぐるみで取り組んだ「生態村(エコビレッジ)」化により、観光と教育の融合による再生を果たしています。
核となったのは、住民を“ガイド”や“講師”として育成し、地域に生息する昆虫や動植物の知識を伝える役割を持たせるというアプローチでした。専門家と連携して住民自身がナチュラリストとしての知識と自信を身につけ、「地域の価値は自分たちが伝えるものだ」との意識が根付きました。
この取り組みの中心にあるのは、「自己効力感(self-efficacy)」の強化です。人は「自分にできる」と感じるとき、もっとも主体的に動きます。観光の担い手である地元住民にこの感情を持たせたことが、事業の持続性と質の向上につながっています。
さらに、体験者(観光客)が「この場所の自然や文化を守る一部になれた」と感じられる設計になっている点も見逃せません。これは「コミュニティ・ナッジ」とも言える設計で、「自分は貢献者である」という感覚が観光体験に深みを与え、再訪意欲や寄付行動、SNSシェアなどを促進します。
スイス・ツェルマット:選択アーキテクチャと付加価値による満足度最大化
アルプス山脈の麓にあるスイスのツェルマットは、世界的な高級リゾート地でありながら、都市からのアクセスが不便な“辺境地”でもあります。ここでは、移動手段に制約がある一方で、宿泊・レジャー・食事のあらゆる選択肢が極めて計算されて設計されており、「迷わずに満足できる」旅が実現されています。
たとえば、宿泊施設はラグジュアリーホテルからロッジ、家族向けアパート、さらには無人キャビンまで、価格帯や目的に応じて最適な選択肢が3〜5個に絞られて提示されます。これにより、「選択回避バイアス(choice overload)」──選択肢が多すぎて選びたくなくなる心理──を回避し、行動を促しています。
また、各施設やアクティビティには「他の利用者の評価」「おすすめコース」「所要時間」などが可視化されており、観光客は自ら意思決定しているようでいて、実際には緻密な「選択アーキテクチャ(choice architecture)」に沿って誘導されているのです。
さらに、マッターホルンの眺望や氷河列車といった“ここでしか得られない価値”が随所に用意されており、「希少性バイアス」と「損失回避バイアス(loss aversion)」を同時に刺激します。
結果として、訪問者は「自分で選び、自分で満足した」と感じる設計となり、平均滞在日数が長く、口コミによる集客率も高くなっています。
カナダ・ニューファンドランド「フォゴ・アイランド・イン」:辺境と贅沢の再定義
カナダの東端に位置するフォゴ島は、かつては漁業の衰退により急激に過疎化が進んでいた地域です。しかし現在では、世界中の富裕層や文化人が訪れる“究極のリトリート地”として再評価されています。その起点となったのが、地元出身の女性実業家が創設した「フォゴ・アイランド・イン」という高級ブティックホテルです。
このホテルは、建築・アート・地域経済すべてを融合させたプロジェクトで、スタッフは全員島民、建物は地元産資材を使用、インテリアは伝統工芸を反映。ここでの滞在は単なる宿泊ではなく、「地域文化に触れる深い体験」としてデザインされています。
観光客の心理的欲求を巧みに突いているのは、「希少性バイアス(scarcity)」と「自己語りバイアス(self-signaling bias)」です。到達困難な辺境での贅沢体験は、“知る人ぞ知る自分だけの場所”という所有感を与えます。そして、「こんな場所に行ける私」「社会貢献型ツーリズムを選ぶ私」という“自分像”を強化する構造になっているのです。
このホテルの宿泊料金は1泊1,500カナダドル以上(約15万円)にもかかわらず、年間の稼働率は非常に高く、長期滞在者も多い。その背景には、「価格」ではなく「意味」で選ばせる戦略があると言えます。
これら3つの海外事例に共通するのは、「心理バイアスを読み解き、それに応じて観光体験全体を設計している」という点です。
- 台湾では「地域参加と誇り」から再生を促進
- スイスでは「迷わせず満足させるUX」によって選ばれる仕組みを構築
- カナダでは「物語と自己肯定」を通じて超高価格帯でも予約が絶えない設計を実現
いずれも、“何があるか”ではなく“どう体験させるか”に主眼を置いており、地方のポテンシャルは環境や地理条件ではなく、「設計次第で拡張できる心の価値」にあることを示しています。
次章では、こうした事例を整理し、行動経済学に基づいた観光ナッジの設計フレームを具体的に提示していきます。
共感設計としてのナッジ戦略
これまで国内外の成功事例を通じて、観光において人の“心を動かす仕掛け”がいかに有効であるかを見てきました。観光客の選択や行動は、合理的な価格や移動距離だけではなく、無意識のバイアスや感情的な価値認識によって大きく左右されます。
では、実際に地方自治体や観光事業者がこうした「ナッジ(行動の後押し)」を設計し、実装するにはどうすればよいのでしょうか。ここでは、行動経済学に基づいた観光ナッジ設計のフレームワークを紹介し、各段階で活用できる具体例を示します。
観光ナッジ設計の5ステップ
ステップ1:ターゲットの明確化(誰の行動を変えたいか?)
最初に定めるべきは、「誰に来てほしいか」というターゲット像です。たとえば、
- インバウンドの20代旅行者(感情とSNS重視)
- 首都圏在住の40代ファミリー層(安心感と教育効果を重視)
- 地元にゆかりのあるUターン予備軍(郷愁と関係性)
ターゲットごとに重視する心理バイアスや行動原理は異なります。すべての層に刺さるメッセージは存在しないため、ペルソナを具体化することが起点になります。
ステップ2:主要バイアスの特定(どんな心理が意思決定に影響するか?)
ターゲットが抱く意思決定の障壁や、逆に誘因となるバイアスを特定します。たとえば:
- 「行っても何もなさそう」:確証バイアス
- 「他人も行っているなら安心」:社会的証明
- 「今しか体験できない」:希少性バイアス
- 「交通が不便そうで面倒」:ハッシル・ファクター
課題ごとにバイアスを可視化すると、対処すべき施策が明確になります。
ステップ3:メッセージ・提示方法の設計(どう伝えると“動きたくなる”か?)
ここで重要なのが「フレーミング効果」と「デフォルトの力」です。
- ネガティブ→ポジティブへの転換:
「不便」→「人混みとは無縁の静寂」 - 数字の変換:
「3軒しか宿がない」→「選びやすい3つの特別宿」 - 推奨パターンの設計:
「人気No.1プラン」「週末限定割引」など
UX・UIにおいてもこの発想は有効で、観光サイトに「初めての方へ」や「人気順表示」などのナッジ要素を取り入れることで離脱率が大きく改善することもあります。
ステップ4:選択肢の整理と構造化(迷わせず、選ばせる)
人は選択肢が多いと選べなくなり、結果として“何もしない”を選びがちです(選択回避バイアス)。したがって、「3択の原則」に基づいて次のように整理するのが有効です。
- コースA:自然体験中心(日帰り)
- コースB:農家宿泊+夕食体験(1泊2日)
- コースC:ワーケーション+地元住民との交流(2泊以上)
あわせて、「他の人はこれを選びました」「このコースが満足度No.1」などの社会的証明も添えることで選びやすさと納得感を補完します。
ステップ5:再訪・定着を促す「ポスト体験ナッジ」
観光ナッジは“来訪させて終わり”ではありません。最終的なゴールは、地域との「心理的な持続的関係」を築くことです。
このような仕掛けは「一貫性バイアス(consistency bias)」を活かしたアプローチです。人は一度関与した行動を継続しやすいため、「また行こう」「紹介しよう」という心理が強化されます。
ナッジ設計で注意すべきポイント
行動変容を促すナッジは強力ですが、以下のような設計上の注意点もあります。
- あからさまな誘導は逆効果になる(「押し売り」感が強いと反発が生まれる)
- ターゲットの文脈理解が浅いと刺さらない(文化背景や価値観を踏まえる必要あり)
- ナッジ疲れ”に注意する(過剰な案内やポップアップで逆に離脱を招く)
あくまで「自発的に動きたくなるように背中を押す」設計が理想です。ナッジは“誘導”ではなく“提案と共感”に近いものと捉えるべきでしょう。
観光ナッジの実践例:A地域の実装フロー
仮に、山間部にある温泉地A町でナッジ設計を導入する場合の具体的な流れを簡単に描いてみます。
|
ステップ |
内容 |
ナッジ例 |
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ターゲット |
30代女性グループ旅行客 |
SNS映え+癒しを求める層 |
|
バイアス特定 |
希少性/社会的証明 |
限定宿・人気投稿数 |
|
メッセージ |
「〇月だけの特別露天風呂体験」 |
写真+ストーリー型LP |
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選択肢提示 |
「人気No.1宿/地元と繋がる宿/完全静養宿」 |
3パターンに絞って提示 |
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ポスト体験 |
「感想投稿で地元スイーツが届く」 |
SNS×ギフト設計 |
このような具体的設計と実装の繰り返しが、観光地に「自分ごととしての記憶」を刻み、再訪意欲や関係人口拡大につながります。
対照例:ナッジが欠如した観光施策の失敗に学ぶ
ナッジ設計が成功の鍵となる一方で、それが欠如したことで十分な成果を得られなかった観光施策も数多く存在します。その代表例のひとつが、ある地方自治体が実施した「駅前再開発に連動した観光施設のオープンプロモーション」です。
新たに整備された観光交流センターは、建築意匠も地域資源も魅力的なものでしたが、開業後の来館者数は予想の半分以下にとどまりました。原因は、単なる施設整備と情報発信にとどまり、「なぜ今、行くべきか」「誰にとって、どんな意味があるか」が一切設計されていなかった点にあります。
駅前のポスターやチラシには「新しい観光拠点が誕生!」といった一般的な文言が並ぶのみで、訪問者の心理を動かす要素が欠けていました。たとえば、
- 「他人も訪れているという証拠」(社会的証明)が提示されていない
- 「来訪によって何が得られるか」の具体性が曖昧(損失回避バイアス)も活用されていない
- 行動を迷わせないコース提示や所要時間情報もない(選択アーキテクチャ)の欠如
結果として、施設は一過性の話題性に終わり、継続的な集客や地域経済の活性化には結びつきませんでした。
このように、「施設をつくること」や「予算を投下すること」だけでは人は動かず、「人がどう選び、どう行動するか」の心理を見通して設計されたナッジがなければ、観光資源は“死蔵資産”になってしまう危険性があります。
まとめ
今回は、NewsPicksの「HPの改修だけで、観光客は『10倍』になる」という実例を起点として、観光による地方創生における行動経済学の応用について、国内外の成功事例を交えて読み解いてきました。
一見すると観光客の誘致とは「情報を出す」「施設を整備する」「アクセスを改善する」など、物理的・制度的施策に焦点が当たりがちです。しかし、行動経済学の視点を導入すると、真に効果をもたらすのは「人の行動を促す心理的仕掛け」であることが明らかになります。
地域に訪れる“きっかけ”や“選ぶ理由”は、合理的な比較や分析に基づいてなされているわけではありません。私たちは「誰かが行っていたから」「なんだか楽しそうだったから」「期間限定だったから」といった、直感や感情、認知バイアスの影響を強く受けて意思決定しているのです。
以下では、これまで取り上げてきたポイントを踏まえて、観光による地方創生に役立つ行動経済学的アプローチを再整理していきます。
人は情報で動かない。意味と感情で動く
熊本・阿蘇や新潟・越後妻有の事例に見るように、重要なのは「この地域にはどんな資源があるか」ではなく、「この地域に来るとどんな意味のある体験ができるか」です。
農業体験も、アート巡りも、漁師メシも、単体では“物理的イベント”に過ぎません。それを「縄文から続く火入れの営み」「土地と共鳴する現代芸術」「朝にしか味わえない甘味」などと物語化することで、“行ってみたい”を“行かずにはいられない”に変換できます。
これは「フレーミング効果」「ナラティブ効果」「希少性バイアス」など、認知に関わるバイアスの複合的な活用です。
選ばせる設計が、訪問のハードルを下げる
スイス・ツェルマットのように、観光地の魅力が豊富であっても、選択肢が多すぎると人は“動かない”というパラドックスがあります。これは「選択回避バイアス(choice overload)」の影響です。
したがって、観光協会や宿泊施設は「どれでもどうぞ」ではなく、「迷わず選べる3つのモデルコース」「人気No.1はこれ」といった“意思決定の負担を減らす設計”を行う必要があります。
旅行とは、多くの人にとって“日常を一時的に離れる行為”であり、不確実性がつきものです。その不確実性を少しでも減らす「選択アーキテクチャ」の設計が、行動を前進させるカギになります。
「地域の人」こそが最強の観光資源になる
台湾・桃米生態村や石川・春蘭の里のように、住民自身が観光の担い手となる地域では、訪問者との間に“物語の共有”が生まれやすくなります。
これは単なる案内役ではなく、「自分たちの暮らしや誇りを見せ、伝える」主体となることを意味します。こうした関係は、観光客の中に「所有効果」や「自己効力感」「共感バイアス」を生み出し、再訪や物産購入、関係人口化につながっていきます。
「魅力的な人がいる地域は、何度でも行きたくなる」──これは極めて人間らしい、しかし戦略的に設計できる観光資源なのです。
ナッジは単なる誘導ではなく、“共感設計”である
ナッジとは、人の無意識の行動パターンに“気づき”を与え、自発的な行動を後押しする設計です。しかしその本質は、「人に動いてもらう」のではなく、「人が自然に動きたくなる環境をつくる」ことにあります。これは相手の感情、文脈、価値観への理解があってはじめて成立する「共感設計(empathy architecture)」の営みです。
なぜ“共感”が行動の前提になるのか
私たちが観光地を選ぶとき、感情に響いた言葉、誰かの笑顔、SNSに投稿された感動体験──それらに共鳴して“行ってみたくなる”という気持ちが芽生えます。行動経済学が扱うバイアスやヒューリスティックも、突き詰めれば「共感を誘発する構造」の中にあります。したがって、観光戦略においては、制度設計やUXよりも前に「共感をデザインする」ことが求められるのです。
地方創生に向けた3つの実践ポイント(明日からできるTips)
今回の締めくくりとして、観光×行動経済学の視点から、明日から取り組める実践ポイントを以下に整理します。
|
観光戦略の視点 |
行動経済学的な対応策 |
実践例(ナッジ) |
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1. 訪問意欲を高めたい |
フレーミング/ |
「今だけ」「ここだけ」 |
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2. 情報提供で迷わせない |
選択アーキテクチャ/ |
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3. 継続関係を生みたい |
一貫性バイアス/所有効果 |
SNS投稿特典・EC連動・再訪割引 |
これらを意識するだけでも、「行ってみたい」「また行きたい」と思われる確率は飛躍的に高まります。
観光とは、土地や施設の提供ではなく、「人の行動と記憶を設計すること」である。そう言い切っても過言ではありません。とりわけ人口減少が加速する日本の地方においては、「来てもらう理由」「選んでもらう物語」「関係を持ち続けてもらう設計」を行動経済学の知見でデザインすることが、地域存続の最適解となるはずです。
日本は“自然資源”にも“文化資源”にも恵まれています。しかしそれを「どう伝え、どう選ばせ、どう継続させるか」は、行動の仕組みを知ってこそ可能になります。
観光の未来は、“建てる”ことではなく、“動かす”ことにあります。
さて、今回はここまでとします。
次回のテーマは「数理思考モデル×行動経済学」で、更新は6/9(月)10:00の予定です。お楽しみに!