ビジネス×行動経済学

行動経済学や行動心理学など行動科学の理論やバイアスをビジネスに適用することを目的にしたブログです

『創業者が去る日、工場は何を継ぐのか』第七話

――全員が正しいのに止まる町工場を、次の世代へつなぐ十五の決断

第七話 録画された『勘』

AIは、野上の七秒に、三行の説明をつけた。

だが野上は、それを自分の判断とは認めなかった。

火曜日、午前七時四十六分。

第一会議室のモニターには、三週間前の映像が止まっていた。

村瀬が加工した四個の部品を並べ、野上鉄治が刃先を光へ向ける。切りくずを指で広げ、材料の検査票を見る。そのあと、野上の動きが七秒間止まる。

佐伯真紀が、その後も何度も見返してきた場面だった。

画面の右側には、動画解析システムが生成した説明が表示されている。

〈工具を主原因の候補から除外〉

〈根拠:交換直後/初品良好/欠けなし/切りくず形状〉

〈次の確認対象:材料ロット、機械温度、ガイド摩耗〉

「この七秒を、ここまで分けられるんですね」

村瀬が、画面へ顔を近づけた。

「工具を見たあと、なぜ材料へ戻ったのか、映像だけでは分かりませんでした。でも、これなら順番を追えます」

佐伯も、同じ三行を見ていた。

あの日から、第一ラインの段取り替えと異常対応を十七本、映像に残してきた。手元と操作盤を映すカメラに加え、機械の近くへ小さなマイクを置いた。主軸負荷、工具使用数、材料ロット、測定結果は時刻を合わせて保存した。

システム会社が用意した試行版は、それらを一つの画面で再生できる。会話を文字にし、作業を区切り、過去の似た場面を探す機能もある。

ただし、画面に出ている三行は、映像だけから生まれたものではなかった。

七秒後に野上が行った確認と、佐伯があとから聞き取った説明を、AIが結び直した結果である。

「野上さん。この説明は合っていますか」

野上は椅子に座らず、モニターから少し離れた場所に立っていた。

「書いてあることは間違ってない」

「では、この七秒の判断を残せたと考えていいでしょうか」

「それは、俺が答えを出したあとの説明だ」

野上は、停止した自分の顔を見た。

「あの七秒そのものじゃない」

村瀬が振り返った。

「違うんですか」

「工具じゃないと分かったから、材料とガイドを見た。その説明はできる。だが、あのときは、工具かもしれないと思って見てる。最初から三行目を知ってたわけじゃない」

画面の説明は、迷いなく上から下へ並んでいた。

野上の七秒には、同じ順序はなかった。

午前九時十八分。

第一ラインでは、先週、保有数量を三百本に見直した旧型シャフトの加工確認が始まった。

黒田が翌週の教育予定へ入れたものである。六年間使っていなかった専用治具を取り付け、バックアップから加工プログラムを呼び出す。校正を終えた検査具も作業台に置かれていた。

作業するのは村瀬だった。

野上は答えを言わず、質問だけをする。佐伯はそのやり取りを撮影し、小宮は初品検査の記録を取る。

「最初に何を見る」

「図面の改訂です。前回加工したときから、端面の振れが追加されています」

「次は」

「治具の品番と、取り付け面です」

村瀬は治具を裏返し、接触面を布で拭いた。目に見える傷はない。指先で縁を一周し、細かな打痕がないことを確かめる。

「なぜ、そこを触った」

「ごみを挟んだまま締めると、振れに影響するからです」

佐伯のタブレットで、AIが会話を文字へ変えていく。

〈確認:治具取り付け面〉

〈想定事象:異物の挟み込みによる端面振れ〉

初品の寸法と振れは規格内だった。続けて三個を加工しても、値は安定している。

野上が聞いた。

「ここで、何を疑わなくてよくなった」

村瀬は加工品と測定結果を見比べた。

「治具の取り付けです。少なくとも、今の三個で急に振れが出る状態ではありません」

「何個先まで、そう言える」

村瀬の答えが止まった。

「分かりません」

「なら、分からないと残せ」

佐伯は、あの日、第一ライン脇で手帳に書き留めた三つの言葉を、新しい記録画面へ入力した。

〈変わったもの〉

〈疑ったもの〉

〈やめたもの〉

その下へ、四つ加えた。

〈止める境界〉

〈再開する条件〉

〈結果〉

〈この判断を使ってはいけない条件〉

「やったことだけではなく、途中で捨てた可能性も残します」

佐伯が言うと、野上は加工品を一つ取り上げた。

「捨てた理由もだ。理由なしで消したら、次のやつは最初から見なくなる」

AIは会話を作業ごとに区切り、映像へ印を付けた。治具、図面、初品、端面振れ。検索欄へ〈振れ〉と入れると、似た確認を行った別の映像が三本並んだ。

一時間前まで、十七本の映像は、撮影日順に保存されているだけだった。

今は、何を疑い、何を消し、どこで止まったのかから探せる。

残せるものが、確かに増えていた。

金曜日、午後四時八分。

第一会議室の机に、八枚の事例カードが裏返して置かれていた。

材料ロット切り替え後の粗さ悪化。機械が冷えた状態での寸法変動。ガイド交換基準前の振れ増加。冷却液濃度低下による工具寿命の短縮。

どれも、過去三週間に撮影したか、測定記録と野上の聞き取りから再構成した事例である。

村瀬は一枚ずつカードを開き、AIが示す類似映像と確認項目を使って、次に調べる順序を答えた。

八件目は、加工開始直後だけ寸法が小さく出て、十個ほどで中央へ戻る事例だった。

画面には、二本の類似映像が表示された。

〈類似事例A:設備温度の上昇に伴い安定〉

〈類似事例B:測定器の温度差による見かけ上の変動〉

「先に、加工品と測定器を同じ室温へ置いた時間を確認します。それで変わらなければ、設備温度を見ます」

村瀬が答えると、野上はカードの裏を見せた。

記録された確認順序と一致していた。

「八件、全部ですね」

小宮が結果表へ丸を付けた。

「映像だけの教育より、確認した根拠が追えます。力量確認の記録にも使えます」

黒田は、事例ごとの所要時間を見た。

「一件平均九分か。前は、野上を呼んでから説明が始まるまでにも時間がかかった。これなら予定の中へ入れられる」

システム会社の技術者は、モニター越しに説明した。

「事例が増えれば、機械音や主軸負荷の近さも比較できます。最初に見るべき候補を絞る時間は、さらに短くできます」

佐伯は、八つ並んだ丸を見た。

野上と同じ人をつくるのではない。

それでも、野上がいなくても同じ問いから始められるなら、会社に残せるものは大きい。

「この形なら、三月までに主要な異常を一通り登録できます」

佐伯が言うと、野上は最後のカードを裏返した。

「前に起きたことならな」

八つの丸は消えなかった。

ただ、その外側に何があるのかは、まだ一度も試されていなかった。

翌週月曜日、午後一時五十二分。

第一ラインへ、新しい材料ロットが入った。

材質も径も同じで、受入検査は合格している。材料証明書の硬さは規格内の上限寄りだったが、加工条件を変える必要がある値ではない。

工具の使用数は三十四個。交換基準は百二十個。ガイドの累積加工数にも余裕がある。冷却液濃度は六・八%で、管理範囲内だった。

村瀬は空運転を行い、初品を加工した。

表面粗さは一・一。

三個目は一・二。

六個目は一・三。

上限一・六に対し、すべて規格内である。

タブレットには、機械音と主軸負荷が過去の正常加工へ重ねて表示されていた。二つの波形は、ほとんど同じ形をしている。

〈正常加工との類似度 93%〉

〈継続可能〉

〈次回測定 十一個目〉

村瀬は七個目を加工した。

音は、いつもと変わらない。

刃先へ当たった冷却液が白く散り、透明な窓を細く流れ落ちる。短く切れた切りくずが、受け皿へ落ちた。

八個目も、同じだった。

村瀬は起動ボタンへ指を置いた。

タブレットには、緑色の表示が残っている。

それでも、指を押し込めなかった。

七個目の切りくずは、落ちる前に一度だけ刃先へまとわりついた。八個目の表面には油の光があったが、切りくずの先だけが乾いた色に見えた。

冷却液の音も同じである。

同じはずなのに、工具へ当たったあとの広がり方が、わずかに上へずれていた。

村瀬は顔を窓へ近づけた。切削油と温められた金属の匂いの奥に、乾いた熱の臭いが一瞬だけ混じった。

タブレットを見直した。

九十三%。

自分の目より、機械の記録と十七本の映像を比べた数字の方が正しいように見えた。

もう三個加工すれば、次の測定になる。その三個が良品なら、今感じている違和感は気のせいだったことになる。

村瀬の指が、起動ボタンをわずかに押した。

機械が動き出す前に、手を離した。

停止ボタンを押す。

主軸の回転が落ち、切削油の音だけが残った。

黒田が第二ラインとの間から歩いてきた。

「何が出た」

「まだ、何も出ていません」

「画面は」

「継続可能です」

黒田はタブレットと、止まった機械を順に見た。

「なら、なぜ止めた」

村瀬は窓の内側を指した。

「画面では正常です。でも、正常だったときと同じ流れ方ではありません」

午後二時二十一分。

野上は、機械へ触れずに村瀬の後ろへ立った。

「最後の良品から、変わったものを言え」

「材料ロットです」

「ほかは」

村瀬は、工具使用数、ガイド記録、冷却液濃度を読み上げた。

「全部、管理範囲内です」

「範囲に入ってることと、同じことは違う」

野上は、八個の加工品を作業台へ並べさせた。

小宮が表面粗さを再測定する。値は一・一から一・三の間に収まり、寸法も規格の中央にある。

黒田が材料証明書を見た。

「硬さは上限寄りだが、外れてはいない」

「材料だけ戻せます」

村瀬は、前のロットが材料棚に二本残っていることを確認した。

「その前に、何が違って見えた」

野上が聞いた。

「切りくずが一度、刃先へ付きました。冷却液も、当たったあと上へ広がっています」

村瀬は機械の扉を開けた。停止した刃先へ、作業灯の白い光が当たる。

冷却液のノズルは、工具の先端よりわずかに高い位置を向いていた。定期清掃の記録には、午前中にフィルターを交換し、ノズルを取り外して清掃したことが書かれている。

「濃度は測った。でも、ここへ当たる量は測っていません」

村瀬がノズルを指した。

基準として残っていた写真と比べると、先端が四ミリほど上を向いている。固定ねじは緩んでいない。清掃後に締め直した位置が、そのままになっていた。

ノズルを基準位置へ戻し、前の材料ロットで二個加工する。粗さは一・一だった。

新しいロットへ戻す。一・二。

冷却液の広がり方も、切りくずの落ち方も安定した。

小宮が、停止前に使った工具を拡大鏡で見た。

刃先の一部に、薄い灰色の付着が始まっている。

「構成刃先の初期ですね。材料の硬さが上限寄りで、刃先へ当たる冷却液が減った。どちらか一つなら問題にならなくても、重なって温度が上がった可能性があります」

不良品は、一つもなかった。

村瀬が止めた時点では、数値上の異常もなかった。

佐伯は、タブレットの入力項目を開いた。

材料硬さはある。冷却液濃度もある。工具使用数、主軸負荷、機械音も保存されている。

ノズルの向きと、刃先へ届く流量はなかった。

カメラには機械の窓が映っていたが、切削油の反射で、当たる位置までは判別できない。

「AIが見落としたのではありません」

佐伯は言った。

「私たちが、見るべきものを見せていませんでした」

野上は、タブレットの緑色の表示を消した。

「見せてないものがあると、画面は言ったか」

誰も答えなかった。

午後三時四十七分。

第一会議室のモニターに、システム会社の技術者が映っていた。

技術者は、当日のデータと映像を確認したうえで説明した。

「ノズルを正面から見るカメラと、配管へ流量センサーを追加すれば、今回の変化は検知できます。材料硬さも数値で取り込めば、複合条件として警告を出せる可能性があります」

「技術的には、できますか」

小宮が尋ねた。

「はい。少なくとも、今回と同じ事象には有効です」

技術者の説明は正しかった。

測っていないものを測る。映っていない場所へカメラを向ける。今回の見落としに対する、具体的な改善である。

「費用と設置期間を見積もってください」

佐伯はそう頼んでから、続けた。

「ただし、センサーを増やせば、次の未知の条件にも継続可能と判断できるわけではありません」

技術者はうなずいた。

「検知できるものは増やせます。でも、何を検知対象にするかは、御社の工程知識がなければ決められません」

「では、今回の問題は、精度が低かったということではないんですね」

黒田が聞いた。

「入力された項目に限れば、過去の正常加工と九十三%似ていました。計算自体は間違っていません」

小宮が画面の写しを机へ置いた。

「でも、表示は〈継続可能〉でした」

技術者は一呼吸置いた。

「その表示は、私たちの設計です。類似度を現場で分かりやすく使うために、過去事例の結果を付けました。今回の使い方には強すぎました」

誰か一人が間違っていたわけではなかった。

システム会社は、与えられたデータから近い事例を正しく探した。小宮は、検知できる項目を増やそうとしている。佐伯は、野上の判断を会社へ残そうとした。

村瀬は、しばらく手元を見ていた。

「九十三%を見たとき、自分が間違っていると思いました」

全員の視線が村瀬へ向いた。

「音も負荷も同じでした。数値も規格に入っていました。あの画面の方が、私より多くのことを見ていると思ったんです」

「それでも止めた」

黒田が言った。

「はい。でも、あと三個だけなら作ってもいいとも思いました」

黒田は、机の上の〈継続可能〉へ指を置いた。

「機械を止める権限は、画面には渡していない」

「はい」

「画面と違うから止められないなら、教育したことにならない」

野上は、停止前の切りくずを入れた小さな袋を手に取った。

「勘は、いつも正解を当てることじゃない」

袋の中で、細い切りくずが乾いた音を立てた。

「分からないまま進めないことだ」

午後五時十二分。

佐伯は、試行画面の左上にある名称を削除した。

〈野上技能AI〉

システム会社が便宜上つけた仮称だった。野上は最初から、その名前を好んでいなかった。

佐伯は、新しい名称を入力した。

〈異常判断支援記録〉

「野上さんの代わりをつくるのはやめます」

「最初から、俺はそう言ってる」

「はい。AIの役割を三つに限ります」

佐伯はホワイトボードへ書いた。

〈類似事例を示す〉

〈過去に疑った原因と、捨てた根拠を示す〉

〈情報が足りない場合は、類似事例なしと示す〉

〈継続可能〉は削除する。〈再開承認〉もAIには表示させない。

システム会社の技術者は、オンラインで画面案を修正していった。

「類似度は残しますか」

「残してください。ただし、品質の確率ではなく、登録された項目がどれだけ近いかだと明記します」

「未入力の項目も表示します」

「お願いします。答えがないことを、答えで埋めないようにしてください」

次に、黒田が権限を書いた。

設備は、作業者の誰でも止められる。

再開条件は、黒田が決める。ただし、加工品の確認方法と隔離範囲について小宮の同意を得る。

出荷を承認するのは小宮である。

判断記録の更新担当は村瀬とした。野上が在籍する三月までは月に一度、野上が内容を確認する。その後は、黒田と小宮が更新の要否を確認する。

仕組み全体の次回見直し日は三か月後、責任者は佐伯とした。

佐伯は、倉庫の棚卸しで作成した〈保有理由票〉を机へ置いた。

在庫を残すときには、守る対象、必要数の根拠、状態を維持する方法、見直す日、決めた人を書いた。

技能も同じだった。

何を見たのか。どの条件で使えるのか。どこで止めるのか。誰が再開を決めるのか。結果をいつ見直すのか。

答えだけを残せば、その答えが生まれた境界が失われる。

「判断履歴票にします」

佐伯は、新しい用紙の最上段へ書いた。

〈兆候〉

〈前提条件・変化点〉

〈候補原因〉

〈捨てた原因と根拠〉

〈停止した境界〉

〈決定・結果〉

〈適用してはいけない条件〉

〈次回見直し日・更新責任者〉

村瀬が、最初の記録として、午後の事例を書き始めた。

野上は、その手元を見ていた。

答えを教える人の顔ではなかった。

答えがなくなる場所を、次の人と一緒に探す人の顔だった。

翌朝、午前八時九分。

村瀬は、完成した判断履歴票をシステムへ登録した。

材料硬さは規格上限寄り。冷却液濃度は管理範囲内。ノズル位置は基準より四ミリ上。切りくずの一時的な巻き付き。乾いた色。構成刃先の初期兆候。

停止した時点では、測定値に異常なし。

画面が検索を始めた。

前日までなら、最も近い正常事例と九十三%という数字が出ていた。

新しい画面には、別の表示が出た。

〈類似事例なし〉

〈未取得情報:刃先への冷却液流量〉

〈人による確認が必要〉

野上は三行を読み、椅子の背へ手を置いた。

「分からないって出せるなら、使える」

村瀬が小さく息を吐いた。

佐伯は、過去の十七本にも新しい項目を適用するよう指示した。

数分後、二つの一覧が画面に現れた。

〈判断理由が記録されていない事例 十九件〉

〈同じ兆候に異なる判断が付いた事例 十四件〉

「映像は十七本しかありません」

村瀬が言った。

「一つの映像に、複数の判断が含まれていたということです」

佐伯は、二つ目の一覧を開いた。

〈冷却液の当たりが弱い〉という同じ言葉に、〈継続〉と〈停止〉の両方が付いている。

一本目の映像では、野上が加工を続けていた。二本目では、黒田が設備を止めている。

AIは、その二つを矛盾として並べただけだった。

佐伯は一本目を再生した。

野上の右手が機械の中へ入り、冷却液ノズルの先端をわずかに押す。動いた距離は、指の幅より小さい。

操作の記録にも、作業標準にも、その動きは書かれていなかった。

「今、何をしましたか」

村瀬が映像を止めた。

野上は画面へ近づいた。

「ノズルを戻した」

「どこへですか」

「刃先に当たるところだ」

「何ミリ動かしたか、決まっていますか」

野上は答えず、停止した自分の指を見た。

画面の中では、ほんの一ミリほどの動きに見えた。

AIが録画したのは、野上の勘ではなかった。

会社がまだ、何を見ていないかだった。

最初に見つかった空白は、手順書にない一ミリだった。

※第八話に続く